@article{oai:bunka.repo.nii.ac.jp:00000276, author = {佐藤, 泰子}, journal = {研究紀要}, month = {Jan}, note = {貞享五(1688)年, 井原西鶴は『日本永代蔵』巻六に泉州堺に小刀屋とて長崎商人有。此津は長者のかくれ里根のしれぬ大金持其数をしらず殊更名物の諸道具から物唐織先祖より五代このかた買置して内蔵におさめ置人も有………分限になるはじめは其比唐船かすかす入て糸綿下直になりて上々吉の緋りんず一巻八匁五分づゝにあたれり。1)と, 舶載染織品を扱う堺の商人のようすを記している。元禄(1688-1704) 前後の人々, 特に分限者の心が一斉に美服に駆立てられたことは, 当代隆盛を極めはじめた小袖雛形本の刊行によっても明らかである。この背景には, 明暦三(1657)年の江戸大火以後, 権力を越えて経済力に裏付けられた人々の志向が在り, と同時に, それを充足させる生産流通の状況が指摘される。そこで, 後者, すなわち様々に描写される生活や風俗志向と常に相関関係にある生産流通面を通じて, 近世初期染織の状況を考察することを目的として, 本稿は先ず, その成因を, 泉州堺との関係にまで遡って求めることとした。なぜならば, その地は, 文頭の西鶴引用文にも示すとおり, 当時の繁華都市, 江戸・大阪・京都に先行して,自治の形成と富の蓄積を達成させ,しかも織豊政権の確立の世状と相侯って, 京坂の発展に少なからず関与した地で、あったからである。すなわち, ここに, 堺の繁栄振りと染織に於ける重要性を確認し, その伝播を通じて,近世初期染織界の必然性を通観してみようとするもである。}, pages = {171--182}, title = {堺の繁栄よりみた近世初期染織の成因について}, volume = {16}, year = {1985} }